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2015年10月28日水曜日

桜井 大神神社

山の辺の道散策桜井編の1回目は、大神神社である。おおみわじんじゃとよむ。おおかみじんじゃと読んではいけない。 おばあさんのように食われてしまう。前回も言ったような気がするが、日本語の読み方は難しいですね。

JR奈良駅から桜井線に乗り換える。1番線である。駅では桜井線と呼ばず、万葉まほろば線とネーミングしている。 奈良駅が改装なり広くきれいになりました。


この車輛だが、外国人旅行者もちらほらいる。


三輪駅で下車。



三輪そうめんで有名な三輪ですね。三輪の駅名は背後の三輪山からきていると思うが、大神神社の呼び方からすると、みわかみ かもしれんと思った。さすれば、私達は神様のソーメンを有難くも食べていたことになる。

駅舎は、日本の家屋風の建物です。さすが、奈良まほろば線の駅です。


駅前に若衆が集まっていた。大美和青年会の皆さんです。お祭りがあるようで、だんじりと神輿が運ばれている。楽しそうですね。



 
神輿には、樽酒が安置されている。お祭り終了後は、皆で飲むんだろうなァ。

行進について行きたい気がしたが、お祭りの取材ではないので、涙を飲んで本来の大神神社の取材に戻った。

神社側には、駅の降り場がないので直接でなく、迂回して線路をまたいでからお詣りすることになる。

大神神社の参道

途中にある、名もしれぬ社。 最近改築したらしく、屋根は赤銅でピッカピカでした。やはり、お狐様を祀ってありました。


参道を歩くこと二、三分で鳥居前につく。 ここは、二の鳥居である。

二の鳥居前


 
額には、三輪明神とある。
 
 

大神神社の石碑

幽玄の書舎

鳥居前の常夜灯  木造りで趣があり写してみた。


この神社は、なぜか交通安全の守り神となり、自動車のお祓い所である社を持っている。


鳥居をくぐると、このような本殿にむかっての広い参道がつづく。


ここで大神神社の基礎情報をWikipediaから取得する。

大神神社
Omiwa-jinja haiden.JPG
拝殿(重要文化財)
所在地奈良県桜井市三輪1422
位置北緯34度31分43.56秒
東経135度51分10.84秒
座標: 北緯34度31分43.56秒 東経135度51分10.84秒
主祭神大物主大神
神体三輪山(神体山)
社格式内社(名神大)
大和国一宮
二十二社(中七社)
旧官幣大社
別表神社
創建不詳(有史以前)
本殿の様式なし
別名三輪明神・三輪神社
札所等神仏霊場巡拝の道21番(奈良8番)
例祭4月9日
大神神社(おおみわじんじゃ)

奈良県桜井市三輪にある神社。式内社(名神大社)、大和国一宮、二十二社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
別称として「三輪明神」、「三輪神社」がある。

社格の高い神社です。

御祭神

主祭神

大物主大神 (おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命)

大物主神御影(菊池容斎筆、部分)
手前の神が大国主神
 

いわゆる蛇神様ですね。ゲーム信長の野望で、こんな画像が出てきた。ギョである。



大物主神蛇神であると考えられ水神または雷神としての性格を合わせ持ち稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として特段篤い信仰を集めている。また日本国の守護神(軍神)、氏族神(三輪氏の祖神)である一方で祟りなす強力な神(霊異なる神)ともされている。

古事記では、大国主命とは別神であるが、日本書紀では大国主神の別名としている。

配神

大己貴神 (おおなむちのかみ)=大国主神(おおくにぬし)

大国主神の別称ですね。勉強の甲斐があり、幾分分かるようになってきた。

少彦名神 (すくなひこなのかみ)

 
 
由緒と概要:
 
神武東征以前より纏向一帯に勢力を持った先住豪族である磯城彦が崇敬し、代々族長によって磐座祭祀が営まれた日本最古の神社の一つで、皇室の尊厳も篤く外戚を結んだことから神聖な信仰の場であったと考えられる。旧来は大神大物主神社と呼ばれた。
三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、江戸時代に造営された拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。

 
三輪山(神体山)と大鳥居

紀記による伝承では、こう記されている。

伝承:

大国主神大己貴神)は少彦名神とともに国造りをしていたが、大国主が、「お前は小さな神だな」と愚弄したために国造りなかばにして少彦名神は常世に帰ってしまった。




大国主神が「この後どうやって一人で国造りをすれば良いのだ」と言うと、海原を照らして神が出現した。その神は大国主の幸魂奇魂(和魂)であり、大和国の東の山の上に祀れば国作りに協力すると言った。その神は御諸山(三輪山)に鎮座している大物主神である。

主祭神の画像。

崇神天皇5年から疫病が流行り民が死亡し、同6年には、百姓流離し国に叛くものがあって、憂慮した天皇は、天照大神倭大国魂神を祀るが安からず、天照大神豊鍬入姫命に託して笠縫邑に祀り倭大国魂神を渟名城入媛命に託して祀るが髪が抜け落ちてやせ細り祭祀が出来なくなった(崇神記六年条)。

この経緯は、大和神社の由緒でも引用した。 天理 大和神社

同7年2月、巫女的な性格を持つ倭迹迹日百襲媛命に憑依して、大物主神を祀れば平らぐと神懸りし、その後、天皇に大物主神が夢懸りして現れ、その神託に従って同7年11月に物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、磯城彦後裔である三輪氏の祖である茅渟県(ちぬあがた)陶邑の意富多多泥古(大田田根子)を探し出して祭祀主として大物主神を祀らせた。その結果、国内が鎮まり、五穀豊穣して百姓が賑わった(崇神記七年二月辛卯条)。

 

ということで、この神社が建設された。

境内のマップ



それでは、神社の写真拝観に参ろう。

二の鳥居をくぐり抜けて、常夜灯が両脇に並ぶ参道を登っていく。


参道横にある、末社の祓戸神社。 詳細は、この看板を読んでください。




鳥居

 
 社

拝殿前にあった小さな鳥居と社。 祈願絵馬の掛け所になっている。




 拝殿前の縄鳥居
 


この階段を上ると拝殿に至る。

拝殿  立派な拝殿で、国指定重要文化財になっている。

 

普段は、このような佇まい。


寛文4年(1664)徳川家綱公により再建されたものである。大神神社三輪山をご神体とするために本殿がなく、拝殿を通して三輪山を拝む原初の神まつりの姿を留めている。

 
手水舎

この境内は、国の史跡に認定されている。

 
 
巳の神杉(みのかみすぎ)


その由緒書。

拝殿脇の写典の間  ここで、心静かに写経をする。


勤番所

御祈祷を終え、勤番所に向かう神官と巫女さん。個人情報保護の観点からは怒られそうだが、良い角度で撮れました。まあ、神主さんは公人なので許されるでしょう。


御祈祷も受け付けてくださる。
 


境内のお休み所。その壁には、このような抽象絵画が架かっている。


作者の追求はやめにするが、面白いと思った2枚をアップする。何らかの神事をテーマにしていると思われる。



拝殿の左脇にも小さな手水舎がある。


縄鳥居

そのすぐ横にある末社の神宝神社

由緒板



鳥居  木製で苔むしている。


 
 社

清明殿

 
 祈祷殿・儀式殿・参集殿 は、三殿繋がって建設されている。

中央の 祈祷殿

右側の儀式殿
 
左側の参集殿
 
 
境内では、奉納菊花展が行われていた。


美しい菊花の写真をどうぞ。

 
 

本来ならば、三ツ鳥居も拝観すべきだが、神聖な場所ゆえ遠慮しました。

大神神社のホームページの解説より: 



大神神社拝殿の奥は禁足地として普段は神職さえ足を踏み入れない神聖な場所で、禁足地と拝殿の間には結界として三ツ鳥居と瑞垣が設けられています。三ツ鳥居の起源は不詳で、古文書にも「古来一社の神秘なり」と記され、本殿にかわるものとして神聖視されてきました。この鳥居は明神型の鳥居を横一列に三つ組み合わせた独特の形式で「三輪鳥居」とも呼ばれています。

 最後に大神神社大鳥居三輪山の画像。 後方に見える山が三輪山


車の大きさから推測できると思うが、巨大鳥居です。記録によれば、このように書かれている。

大きさは、熊野大社に次ぎ、高さが32mで、十階建ビルの高さに相当する。 笠木の断面は五角形で、笠木と島木を二段重ねにして、長さが41m程あり、総重量180トン。三重県津市の造船所で製作された。素材は耐候性鋼板と呼ばれる厚さ12mmの特殊鋼で、10年以上経過すると鋼板の表面に硬い酸化皮膜が形成されて、錆による侵蝕を抑えることが出来る。

バカデカいだけでなく、重いのですね。

これで桜井編の1回目はおしまい。

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